okina7のブログ

植民地の満州国の事、家族の事、日本国の事、政治、経済等など、そして今{コロナウィルス}との戦い、何故かオーバーラップ

武道家の父は一人、ソ連軍と戦った”

武道家の父は一人、ソ連軍と戦った”

日本関東軍は敗戦、終戦と共に100万もの国民を捨て、


幹部から日本へ逃げ帰った。     

残された日本兵の殆どが、政府に騙された農業従事者や

父のような会社員で一般人だったのです。 (徴兵で皆軍人にされた)

母と私達兄弟は窓を開け、助けに向かった父を心配し見送り

皆 ハラハラ,ドキドキしながら玄関先の路上を暫し見つめた。

突然” {パン!パン!}と乾いたピストルの音が響いた!

同時に、目の前の路上を父が¨脱兎の如く走り抜けた。


交渉は失敗に終わり、 私の傍に居た母は¨ へなへなと崩れ落ちた。


家族は急いで窓を閉め、戸締り、 父の無事を祈り帰りを待った。


しかし¨ その日は戻らず、家族は心配したが・・翌日の夜


裏口を{トントン}と父は帰ってきたのだ。


結局 近所の日本人を助けることは出来ず 、男性はシベリア送りと


なってしまったが、 近所からの信頼は取り戻し、私も・・


      勇敢な父を尊敬します。・・・ 翁7の父より

                          

四面楚歌・満洲国には終戦記念日はなかった。


錦洲での生活も地獄!


最南端の錦洲に多くの日本人は必死で逃げた¨ しかし・・


露助(ソ連軍)は惨殺、強奪、強姦を繰り広げ、遂に


錦洲市まで南下してきた。 私達はもう逃げ場がありません。


いつ家にやってくるのか分かりません。


一番の心配は年頃の姉でした。強姦、惨殺されないように、


男装しました。頭は坊主刈り、顔には炭や泥を塗り、


服装は、父のスーツを改造して露助が家に押しかけてくる


のを待つしかありません。         
                  

                     


   
背水の陣・錦洲の日本人街・・・
                     
更に、武道家の父は日本刀を30本位持っていたので、


強奪されるので、「敵に取られるよりは土に埋めよう”」と


急いで埋めたのです。 そして・・


”遂に我が家に露助(ソ連軍)がやってきました!


銃を片手に、両手首には時計やブレスレットを幾つもつけ


”ジャラジャラ” と音が出るほどに強奪品を自慢げに見せ


我が家からも時計や宝石など金目のものは強奪されたのです。

ただ¨ 幸いだったのは 姉達に危害がなかったので、

母は ホッ と 一安心しました。 しかし¨ ・・

その後、共産軍、八路軍、国民党と 同じように略奪が続き

 家の中は空っぽとなったのです。    



正に四面楚歌、八方塞りの錦洲となったのです。 続く・・

                         


    在る時は、八路軍将校など5~6人が我が家に泊まり込んだ。


 そして4~5日も居ついたのである。きっと国民党との勢力争い


だと思う。 父は日本人が住む地域のまとめ役として守っていたので


 敵は色々と調査に来ていたのです。


ソ連軍は「男狩り」 「女狩り」と云って無抵抗の日本人に乱暴!


男狩りでは、隠れている日本兵士を探しシベリア収容所へ送り


込むのが目的、逆らえば銃殺” 或る日近所に隠れていた日本兵


がソ連兵に捕まり、近所では悪い噂が広がったのだ”


{佐藤さんの家には何時も敵軍が来ているのできっと密告したのよ!」

と・・正義感が強く人の面倒見の良い父の怒りは想像を絶するものだった。

またまた近所で日本兵が連行されたので、父は噂の汚名を消すために

突如”家を飛び出しソ連兵の元に交渉に行き釈放を求めたのだ”


 母と姉達は止めた{行かないでお父さん!}と・・

しかし、短気で正義感の強い父は武器もなく家を飛び出し助けに走った。


          武道に長けた勇敢な父は ??    続く・・


                                                                                     

四面楚歌・満洲国には終戦記念日はなかった。

満洲中心部 奉天から南下、錦洲へと逃げ る”                      


残虐なソ連軍から逃げるには南へと逃げるしかなく

多くの部下を抱えていた父は、寝ずで部下を

最南端の錦洲市へ逃がし届け、戻ってきた。

正義感の強い父は家族より優先して部下を逃がした。

そして¨私達家族と親戚も逃避したが、義姉二人、

義兄 そして幼子と4人と連絡がとれず、永遠の

別れとなった。

当時の中国は軍隊の派閥もあり混乱していた。

共産軍が戦いを収めたと云うが、現実は八路軍が

主体、また南に勢力をもつ国民党(蒋介石)は親日的で

引揚げを後に手配してくれた、恩人でもあります。

何はともあれ、私達は南の錦洲まで逃れましたが

それからが大変”戦争は終わらなかったのです。

ソ連軍は1946年の1月まで大暴れ、その後は

中国共産軍、八路軍、国民党が主導権をもち

日本人の住まいは町ごとが鉄条網を張られ、もう

どこにも逃げられません。100万人の日本への引揚げは

終戦の2年後から始まり、終わるまで5年間の

掛かりましたので、計 7年間の捕虜生活を過ごす

ことになったのです。引揚げは偉い順に帰国しました。

nhkでは最低150万人の植民と云われていますので、

50万人の日本人はどうなったか? シベリア収容所・

この他中国周辺の収容所・また太平洋戦争での

南方各諸島で戦死・また前回話した、農民、女子の

虐殺、集団自決、疫病者、中国孤児などで多くは

民間人が殺害されたのです。 正式軍隊の多くは

いち早く逃げたようです。その証として関東軍の私の友人

も数人居ますが、中には楽しかったと云う人、辛くて

一言も話しを出来ない人、様々です。 

      僕にはふるさとはない ・・ 翁7