四面楚歌・満洲国には終戦記念日はなかった。
満洲中心部 奉天から南下、錦洲へと逃げ る”
残虐なソ連軍から逃げるには南へと逃げるしかなく
多くの部下を抱えていた父は、寝ずで部下を
最南端の錦洲市へ逃がし届け、戻ってきた。
正義感の強い父は家族より優先して部下を逃がした。
そして¨私達家族と親戚も逃避したが、義姉二人、
義兄 そして幼子と4人と連絡がとれず、永遠の
別れとなった。
当時の中国は軍隊の派閥もあり混乱していた。
共産軍が戦いを収めたと云うが、現実は八路軍が
主体、また南に勢力をもつ国民党(蒋介石)は親日的で
引揚げを後に手配してくれた、恩人でもあります。
何はともあれ、私達は南の錦洲まで逃れましたが
それからが大変”戦争は終わらなかったのです。
ソ連軍は1946年の1月まで大暴れ、その後は
中国共産軍、八路軍、国民党が主導権をもち
日本人の住まいは町ごとが鉄条網を張られ、もう
どこにも逃げられません。100万人の日本への引揚げは
終戦の2年後から始まり、終わるまで5年間の
掛かりましたので、計 7年間の捕虜生活を過ごす
ことになったのです。引揚げは偉い順に帰国しました。
nhkでは最低150万人の植民と云われていますので、
50万人の日本人はどうなったか? シベリア収容所・
この他中国周辺の収容所・また太平洋戦争での
南方各諸島で戦死・また前回話した、農民、女子の
虐殺、集団自決、疫病者、中国孤児などで多くは
民間人が殺害されたのです。 正式軍隊の多くは
いち早く逃げたようです。その証として関東軍の私の友人
も数人居ますが、中には楽しかったと云う人、辛くて
一言も話しを出来ない人、様々です。
僕にはふるさとはない ・・ 翁7
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